モンキー・パンチ経歴書

モンキー・パンチは「MP」名で略載しています 
 
赤文字部分は、出典によって矛盾がある部分です
 
年齢は満で表記。誕生日によって、ひとつ前の年齢の場合があります
 
※敬称略
 
--------- 年代〔西暦〕 --------  ---年齢 --- ------------- 事項 ------------- ------------- 詳細 -------------
 
子供・学生時代
 
     
1937年
昭和12年
0才
 
 5月26日
 北海道厚岸(あつけし)郡
 浜中町霧多布に、長男として生まれる。
 
 
 
本名、加藤一彦。
 
双子座血液型AB。
 
実家は貧しい漁師の家。
 
父親は元々は寺の息子。
秋田県出身でサラリーマンをしていた。
 
 
小学生
 
 
小学生の頃は愛媛県の新居浜に在住。
 
後に再び北海道の浜中町霧多布へ
 引っ越す。
 
 
 
悪い事も出来ないような奥手の性格だった。祖母からは国引きや神話の話をよく聞いていたが、かわいそうなシーンになると泣いていた。このことでMPは物語をイメージすることを学んだと語っている。
 
 
勉強するよりは悪戯書きの絵や漫画に夢中になる腕白坊主。成績はいい方でも悪い方でもなく、それでいてよく先生には叱られていた。
 
 
絵は模写から入った。最初は「のらくろ」次に「冒険ダン吉」戦後、手塚治虫に影響を受ける。
 
 
外国文化に理解があった父親の影響で「ポパイ」などアメコミにも親しむ。朝日新聞の4コマ漫画「ブロンディ」も好きだった。
 
 
雑誌「譚海(たんかい)」「少年倶楽部」のファンでもあった。
 
 
戦後、3,4年頃、出回り始めのボールペンで友人の腕に悪戯書きをして「刺青だ」と得意になっていた。
 
 
町唯一の映画館に足しげく通う映画少年でもあった。歩いて15〜6分のところに東映の映画館があり、片岡千恵蔵の映画をよく観にいく。
 
 
生まれて初めて観た映画は「加藤隼戦闘機」。自分の名前と同じ加藤だったので印象は強烈だった。
 
 
初めて観た西部劇は「悪漢バスコム」。「母三人」などの、お涙頂戴映画もお気に入りの一つ。
 
小学生と断定する記述は無し。北海道在住時の頃のことで、愛媛から引っ越した小学生以降の思い出と思われる)
 
 
 
3年生
 
 貧しかったので、雑誌は友達に借りて
 読み、家計を助ける為に朝夕に
 新聞配達をしていた。
 
 
 
新聞配達は小学3年生から始めて、
中学卒業まで続けた。
 
 
 
5年生
 
 
 「毎日小学生新聞」に三回漫画を投稿して
 二回採用になる。
 
 
 
中学生
昭和25年
   
 
 
モーリス・ルブランの「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズ小説を夢中で読む。
 
手塚治虫の「ジャングル大帝」「アトム大使」など読み始め、漠然と「漫画家になりたい」と思いはじめる。
 
 
 
1年生
 
 
 将来の希望についてのアンケートに
 「マンガ家志望」と書いた覚えがある。
 
 
 
 
アンケートに関しては
ユメ物語として捉えていて
 
「町役場に勤めることが出来ればなあ……」
 
と同程度でしか興味はなかった。
それよりも女の子に興味が移り、得意の絵で
女の子達の注目を集めようと努力していた。
 
この頃はまだ漫画も「真似絵」を
友人に見せて得意がる段階でしかなかった。
 
 
高校生
 
 
 
霧多布高校定時制に在籍。
 
釧路赤十字病院浜中診療所の放射線科
 (X線、レントゲン)に技師見習いとして就職。
 
青年団の文化活動などにも熱を入れ、
 子供たちを集めて自作自演の紙芝居、
 敬老会のスライド映写などで活動する。
 
 
 
 
高校教師から聞いたディズニー映画「バンビ」がエポックメイキング的な作品となる。
 
1955年〔昭和30年〕、日本初公開された「ファンタジア」に「カッコいい」と憧れる。
 
 
日赤浜中診療所では丸坊主で学生服のMPは「坊や」と呼ばれ子供扱いだったが、一番楽しい時期だった。ここの機関紙はガリ版30ページだったが、そこにカットや漫画などを褒められるままに描いた。やがて
 
「もしかしたら漫画家になれるかもしれない」
 
という希望を抱き始める。そこへ浜中診療所所長・道下俊一先生から
 
「君は、こっちの才能を
伸ばした方がいいんじゃないか」
 
と、初めてアドバイスを受け、定時制の授業後、9時過ぎに帰宅すると本気で漫画に取り組むようになる。
 
 
 
2年生
 
 
 最初に手掛けた80ページくらいの長編
 (タイトルは失念)を,、札幌か釧路から出た
 友人の買ってきた雑誌の奥付けを見て、
 N館という出版社あてに送る。
 
 
 
 
原稿は札幌か釧路から出た友人の買ってきた雑誌の奥付けを見て、送った物である。N館は当時、東京の小さな出版社で、貸本屋相手に派手な出版活動をしていた。
 
返事は来ず、二回、三回と送るが同じで、上京して批評を受けるしかないと考え始める。
 
 
※正確な年代不明
 
 
 
 「漫画を描くにも、技師の免許を取ってから」
 
 という道下先生の忠告を受け、札幌の
 北大にレントゲン技師の試験を受けに行くが
 失敗する。
 
 
 
 
卒業時
 
 
ルブランの「ルパン」小説を殆ど読破。
 
高校卒業と同時に診療所を辞め、
 コンブ漁に出たり船に乗ったりして
 上京資金をためる。
 
3万ほど上京資金が溜まってから、東京の
 読売新聞地方求人誌欄から3、4か所の
 「住み込み可、経不問」という新聞配達店を
 みつけて必要書類を送る。
 
 
 
 
大学生
(貸本屋時代の記述と被ります)
 
 
 
 
東海付属通信工学校(現・東海大)
 入学する為に上京。
 
二十歳そこそこで中退。1年で辞める。
 
 
 
この学校を選んだのは、これからはテレビの時代だと思ったから。
 
 
貸本屋時代
 
   
 
 
プロデビューを果たすまでの極貧生活時期に多くの作品を観る事で「エンターテイメントとは何か」を模索し続けていた。
 
 
 
 
1957(昭和32)年
 
or
 
1958(昭和33)年
 
 
 
20歳
 
or
 
21歳
 
 
 
高校卒業後、1月上京。
 上野駅に降り立つ。
 
東海大学専門学校電気科入学。
 
 
 
 
就職先がなく電気・機械の勉強で品川の電気学校に入るため、をするため上京。マンガの勉強をするなら東京だろうとも考えた。
 
上記内容の3か月後
 
 
 
 N館を訪ねて神田神保町へ行くが、
 既にN館は潰れていた。
 
 
 
 
潰れたN館のビルにいた老人に浅草の別の社を紹介してもらうが、そこも本は出せない会社だった。
 
 
※正確な年代不明
 
 
 
▲漫画単行本専用に本を出している
 大阪のB社という出版社が新聞に
 マンガの新人募集をしていた為、
 四谷にあった東京支社に出かける。
 
四ツ谷にあった貸本専門の出版社
 アルバイトをはじめた。
 
文洋社(神田にあった貸本専門の出版社)
 に採用される。
 
 
矛盾した幾つかの情報がある。
 同じ事を指すか(どれかが正しい)、
 別件かは不明の為すべて載せました。
 
 
 
 
漫画家募集の新聞を買ってきて応募を勧めたのは、北海道出身のHという男性。
 
 
新聞配達しながら専門学校に行っていた時、新聞広告「漫画家募集」の三行広告を友人から教えてもらい、2〜3ページ描いてもって行く。パスした後、絵は当時人気の劇画「さいとう・たかを」風にしろといわれ、何ヶ月かかけて128ページの注文を何度か描き直しながら仕上げる。本が出た後原稿料5千円をもらい、友人と一晩のみ明かして使い切る。アルバイトが忙しくなり学校中退。
 
 
▲大学受験を目指す新聞販売所の住み込み仲間が「文洋社」(B社と記述)新人漫画家の募集が掲載している新聞を買ってきて勧められる。B社では東田健二、入江修、社領系明、都島京弥などの原稿を見せてもらい、ショックを受ける。B社から80ページの注文を受け、原稿を描く。原稿料が8千円。三人で飲み明かす。B社で零シリーズを何冊か出す。学校に通ってた記述は無し。
 
 
▲最初、当時普及していたテレビの世界に入りたかったが、新聞の求人欄でみつけた「漫画家募集」にひかれ、貸本専門の出版社でアルバイトをはじめた。四ツ谷にあったその出版社は、会社といっても普通の一軒家で、すぐに100頁仕上げてくるように言われ、いきなりだったので驚いた。最初の頃は手塚漫画丸写しの作風で、貸本誌向きじゃないねと言われていた。
 
 
もともと日本的な作風、例えばフクちゃん・サザエさん等は好きではなく、さいとうたかを氏のような、西洋的で大人っぽい絵にひかれていた。
 
 
▲矛盾した幾つかの情報がある。
同じ事を指すか(どれかが正しい)、別件かは不明の為すべて載せました。
 
 
 
 
【新聞販売店の1日】
 
 
午前4時:起床。配達の区分
 
5時〜7時:2時間で300軒ぐらいを了え戻る。
 
午前中:就寝
 
午後:販拡(最も嫌いだった)
 
5時〜7時:夕刊
 
7時〜8時:夕食
 
9時:就寝
 
 
文洋社に作品を持ち込んでいたときの絵柄は手塚治虫の模写だったが、後に「さいとう・たかを」の絵柄で描くよう指示される。しかし手塚でもさいとうでもないオリジナルでいきたいという、貸本時代の絵に対する反発があった。貧乏もしていたが気にせず、お金がなくなってくると実家に金送れと手紙をした。すると『いいかげんにしろ』とお小言つきで送られてきた。
 
 
1959年
昭和34年
22歳
 
 
加東一彦のペンネームで、貸本雑誌
 「零」で漫画家デビュー、連載をスタート。
 自分の作品の編集もやりながら、
 他人の原稿取りも行う。
 
昼は文洋社の仕事、
 夜は東海大学の夜間部通信工学科
 
 (東海大学学校電気科?)
 
将来性に不安を感じ始め
 新聞販売所を辞める。
 
岸川博巳とともに、哲学堂の近所の
 パン屋の二階を借りて住む。
 
弟・加藤輝彦が上京。
 岸川が下宿を出て、兄弟暮らしになる。
 弟は漫画のバック描きを担当。
 
「少年マガジン」に原稿を持ち込むが
 物にならなかった。
 
 
 
 
「零」は辰巳ヨシヒロ等の「影」シリーズに便乗した物で、都島京弥を中心に、あがさこうじ、かとう、久しゅういち
 
(MPが誘いをかけた岸川博巳の事で、この名はMPとの共同ネーム)
 
その他もう一人と、計5人で作った「ヒマナグループ」というグループ名で出した雑誌。6、7冊位出して、収入は月に1万程。
 
 
東海高等学校通信工学科(現:東海大学付属短大)に1年くらい通うが、貸本屋専門出版社の仕事が忙しくて行かなくなり卒業していない。
 
 
この頃がもっとも辛い時期で、骨と皮で痩せさらばえ、大家さんがパン屋だったので、パンのみの食事が続き、ミカン箱の机で原稿を描いていた。仕送りを無理で承知で頼む。
 
 
後のペンネーム「モンキー・パンチ」は最初、弟との共作ネームだったが、現在は加藤一彦のみが「モンキー・パンチ」名を使用している。
 
 
この年、「少年サンデー」「少年マガジン」が創刊。
 
 
当時の貸本漫画家は白土三平・さいとうたかを・水木しげる等。
 
 
 
 
1961(昭和36)年
 
 
1962(昭和37)年
 
 
 
 
24〜25歳
 
 
62年、「陰流十戒 十兵工の手記」という
 漫画の自費出版を続けていた。
 
 
 
 
 
1962(昭和36)年
 
 
1963(昭和37)年
 
 
 
25〜26歳
 
 
3年ほどで文洋社潰れ
 
年代の記述はないが、
 入社してからだとすると1959年からの
 計算で1962〜3年頃の事となる)
 
 編集者として別の出版社I社に行く。
 
 
 
 
 
1964年
昭和39年
 
 
 
27歳
 
 
3年ほどで文洋社潰れ
 
(※入社してからだとすると、
 1959年からの計算で1962年頃の事となり
 計算が合わなくなってくる)
 
 漫画を出版したいという小さな商事会社に
 行く。
 
(上のI社の内容と同義か?)
 
 
 
 
漫画は出版せず。
営業はせず、デスクワーク担当。
 
 
B社がなくなってから三ヶ月間
 
 
 
編集の仕事の方が気持ちが良くなり、
 段々漫画が描けなくなってくる。
 
I社の給料は3万円。
 2年ぐらいでその会社もなくなる。
 
 
 
 
弟はT文庫やK社(講談社?)からの注文を受けたりしていた。
 
※正確な年代不明
 
 
 
プロのアニメーターに応募してフラれる。
 
インチキ広告代理店、業界紙に
 勤めたりする。
 
 
 
 
低迷期の中でも
 
「どうしてこうも漫画の作りには、似かよった物が多いのか」
 
「客に媚びた漫才師の笑いが目に付き過ぎる」
 
など、漫画や笑いの問題点を考え続けていた。
 
 
※正確な年代不明
 
 
古書店で進駐軍が売りに来てた
『MAD』の絵に衝撃を受ける。
 
 
 
『MAD』の中でも、モーター・ドラッガーという作家の漫画が好きだった。マーベルコミック、DCコミックといった筋骨隆々としたアメコミの絵が好みだった。
 
入荷が不定期で日課のように古書店に顔を出す。影響されたとはいえ、そういう絵を描くという発想には至らなかった。
 
 
 
 
1963(昭和37)年
 
 
1964(昭和38)年
 
 
 
26〜27歳
 
 
「マンガ愛好会」に投稿などを行う。
 漫画家とファンの座談会に出たりする。
 
弟と仲間との三人で
 「マニア・ぐるーぷ」を結成。
 機関紙(同人誌)『MANIA(マニア)』を作る。
 そのうちの1冊を商品見本として、
 各出版社に送る。
 
 
 
 
「マンガ愛好会」には会員も結構いて、月1回、タブロイド8ページの機関誌も出せるようになっていた。
 
(別誌に「8ページの仕事を貰う」とあるのは、この仕事のことか?)
 
昔の漫画仲間5人が集まって、同人誌をつくろうということになり、100部ほど刷ることになった。表紙を担当。
 
 
上記内容の半年後
 
 
 
 「漫画ストーリー」の双葉社編集部から
 
 「日本人が描いたのか外国人が描いたのか
 分からないような絵で面白い。
 表紙を描いた人に会いたい」
 
 と電話があった。
 目をつけたのは当時編集長の清水文人。
 
 
 
商事会社の電話番号載せていて、そこにかかってきた。編集部に出向くと「劇画が描けるか」と聞かれ16ページくらい描いてもっていった。
 
 
プロ漫画家
新人時代
 
     
 
1965年
昭和40年
 
28歳
 
 
 「漫画ストーリー」(双葉社)誌上に、
 「マニア・ぐるーぷ」の名で、三人で
 
 4コマ漫画『プレイボーイ入門』
 
 を発表。
 
 
 
 
「プレイボーイ入門」の時の「マニア・ぐるーぷ」メンバーは、「がむた永二(この頃のモンキー・パンチのPN)」、「摩周仙二(弟・輝彦のPN。由来は「摩周湖」から)」、もう一人はフジノリオ。
 
 
この漫画は新しさが評判だった。編集部からは
 
「これは劇画というよりヌーヴェル・コミックだ」
 
と賞賛される。これを機に、隔週誌に1本ずつ原稿を描けるようになる。しかし描きながら「MAD」の感覚を日本の漫画と融合させようと試行錯誤を続けていた。
 
 
この作品を描きつつ商事会社は辞めずにいた。
 
 
※正確な年代不明
 
 
 
「漫画ストーリー」に
 「アウト・サイダー」をシリーズ連載。
 
商事会社が潰れマンガ1本にしぼる。
 
 
 
 
編集部からは
 
「次が読みたいから早く描け」
 
とせかされるようになる。
 
 
MPは漫画1本に絞った事で、
 
「これが本当のプロ・デビューだと思っている」
 
と語っている。
 
 
1966年
昭和41年
29歳
 
 
 弟と二人の合同ペンネーム
 「モンキー・パンチ」名で
 「漫画ストーリー」に『銀座旋風児』を発表。
 
 
 
 
モンキー・パンチという名は清水文人編集長がつけた。
 
「名前が決まったからすぐ会社に来い」
 
と言われて行くと、黒板にカタカナでモンキー・パンチと書いてあった。
 
「こんなカッコ悪いペンネームは嫌だ」
 
と思ったが新人だったので断れなかった。
 
「カタカナのペンネームってあんまり売れなさそうですよね」
 
と抵抗もしたが
 
「最初は話題集めに使うだけで、1年たったら好きな名前に変えていいから」
 
と言われ、渋々納得。本当は自身の出身地の地名をとって「きり・たっぷ」にしたいとも考えていた。
 
 
この頃は女性を描くのが苦手で、小島功の絵を真似して描いていたが、編集長に
 
「女性が描けていない」
 
といわれ、二年間絵の研究所でヌードデッサンに通う。女性の裸を間近に見て赤くなるほど純情だった。
 
 
 
「ルパン三世」
創作活動時代
 
     
 
1967年
昭和42年
 
30歳
 
 
7月25日、「週刊漫画アクション」8/10
 増刊号の創刊に伴い「ルパン三世」を
 連載開始。
 
杉井ギザブローが「ルパン」の
 アニメ化企画を東京ムービーにもちこむ。
 
 
 
 
「漫画アクション」創刊の半年前、巻頭連載の話が来る。当時テレビで「ザ・ガードマン」などの現実社会に根ざしたドラマがヒットしていた事もあり、編集部からは
 
「ザ・ガードマンみたいな漫画を描いてくれ」
 
と言われる。
 
ルパン物を描きたいと伝えたが編集部から
 
「今さらルパンは古い」
 
といわれ
 
「最初3ヶ月連載し、それで人気が出なければ他に原作を用意するのでそれを元に描く」
 
という約束になる。しばらく話が途切れていたのであきらめていたところ、創刊の締切近くになってから
 
「ルパンはどうなっている」
 
と突然原稿を催促され、慌ててキャラクターを作り1週間で描き上げた。
 
 
「ルパン」を描き始めた当時は東京・巣鴨に住んでいた。
 
 
 
1968年
昭和43年
 
31歳
 
 
漫画の描き方をテーマにした解説本
 「コミック入門」双葉社より
 10月1日初版発行。
 
東京ムービー・プロデューサー
 藤岡豊が大隈正秋にルパンのアニメ化を依頼。
 
 
 
 
MPは最初自身の漫画を
 
「漫画にしか出来ない手法で描いている」
 
という自負があったため、アニメ化については
 
「冗談じゃない。『ルパン三世』は起承転結のはっきりしていたスト―リーよりも、ゲーム的な展開を重視している漫画だから、アニメには絶対に向いていない」
 
と述べ、危惧したという。劇場に売り込みのとき
 
「これはアニメには出来ませんよ」
 
と反対の事をいってしまい、藤岡豊氏から慌てて止められた。
 
 
こちらはTVファースト・シリーズが始まった時期の言葉と思える記述もあるが、下記と矛盾する為、こちらに載せました。この発言の正確な時期は不明)
 
 
1969年
昭和44年
32歳
 
 
「週刊漫画アクション」の「ルパン三世」
 連載終了
 
「ルパン」の劇場アニメ化を狙った
 パイロット・フィルム完成
 
 (正確な日付の記述はなし)
 
 
 
 
MPは仕上がったパイロットフィルムや、そこでジャズを起用するというスタッフのセンスに感激し
 
「これは任せっきりにした方がいい」
 
と、それ以降、アニメ制作には何も言わなくなった。現在でもアニメ「ルパン三世」で「傑作はなんですか」と聞かれると「パイロット版」と答えている。
 
 
アニメ「ルパン三世」は、東宝から4,5千万で劇場化の打診があるが、東京ムービーは予算が安すぎると断わり、事実上劇場化企画は流れる。後にパイロットフィルムはテレビ版として売り込む方向転換となり、サイズをシネスコ版からテレビ版に、声優も代えて売り込みがはじまる。
 
 
※正確な期日未確認
 
 
 
 テレビアニメとして「ルパン」放映決定
 
 
 
 
MPはセル画大にルパンの絵を描いてくれとアニメスタッフにいわれたが、どうしてもその大きさで描けず、漫画サイズに描いた絵をアニメーターらが大きく清書したという。大塚康生らの描いた絵を観て
 
「ぼくより上手い。こっちの方がいいです」
 
などしきりに感心し全てを任せたが、演出については大隅正秋に
 
「原作の世界観を大事にして欲しい」
 
という要望を出し、大隅は極力それに応えた。
 
 
大隅はアニメだと赤がにじみやすいからルパンのジャケットを緑にしていいかと原作者に了解を得て変更している。しかし実際は、自身のお気に入りの服の色に合わせたのが、主な理由だった。
 
 
テレビアニメでルパンが始まる前、MPのところへ脚本の大和屋竺が
 
「ルパンについて知りたい」
 
とやって来る。このような事をしたのは、彼しかおらずMPは大和屋脚本が一番肌に合っていた為
 
「自由にやって下さい」
 
と述べたという。
 
 
1971年
昭和46年
34歳
 
 
「週刊漫画アクション」で
 「ルパン三世・新冒険」シリーズスタート。
 
大阪の読売テレビが「ルパン三世」を
 アニメ化したいという話を持ちかける。
 
東京ムービーの藤岡社長が読売テレビに
 15分のルパン三世パイロットフィルム
 
 (演出:大隅正秋 キャラクター設定:芝山努
 アクションシーン作画担当:大塚康生 
 録音監督:田代敦巳 
 ナレーションコメント:今泉俊昭)
 
 を作り持ち込むと、その場で中野曠三
 (当時東京支社長)が気に入り、
 テレビアニメ化決定。
 
 
ファーストシリーズ10月24日(日)
 午後7時〜7時半枠で放送スタート。
 
 
 
 
テレビアニメ第1回タイトルは原作「DEAD HEAT」を基にした「「ルパンは燃えているか・・・・?!」(脚本・山崎忠昭) 
 
視聴率苦戦を受け、大隅は降板。かわりにAプロダクション演出グループ名義で宮崎駿・高畑勲が内容を子供向きに方向転換。
 
 
1972年
昭和47年
35歳
 
 TVアニメファーストシリーズ
 3月26日放映終了。全23話。
 
 
 
MPは番組終了に関しては寂しいという気持ちはあったが、特に残念とは思わず
 
「自分の漫画がアニメになった」
 
というだけで充分満足だった。
 
 
1974年
昭和49年
37歳
 
 東宝で実写映画
 「ルパン三世念力珍作戦」
 8月3日封切。
 
 
 
プロデューサーは赤塚不二雄、中村千夏。
併映は「ノストラダムスの大予言」。
主演は目黒祐樹。
 
 
 
1975(昭和50)年
 
位?
 
38歳
 
 
 日本のマンガを海外に宣伝するため、
 世界的なコンペティションに参加。
 
 
 
 
参加漫画家は他に手塚治虫、永井豪ら10人くらい。
 
 
1977年
昭和52年
40歳
 
 
「週刊漫画アクション」で
 「新ルパン三世」スタート。
 
日本テレビで再度テレビアニメ化。
 セカンド・シリーズ10月3日(月)
 午後7時〜7時半枠で放送スタート。
 
 
 
度重なる再放送でファースト・シリーズの人気と視聴率が高まり、当時夕方5時台で関東関西共に12〜13%、最高視聴率36.4%を記録。ファンの嘆願書により、新作テレビアニメがスタート。ただし、同時期連載スタートした原作と異なりタイトルに「新」はつかない。後にファースト・シリーズと区別するため、俗称としてファーストシリーズは「旧ルパン」セカンド・シリーズは「新ルパン」と呼ばれる。
 
 
MPはよみうりテレビプロデューサー佐野寿七とゴルフに行った時
 
「簡単に原作から離れていくような気がする」
 
と不満をのべていた。佐野は
 
「それがテレビシリーズというもの」
 
と話したという。
 
 
1978年
昭和53年
41歳
 
 
東宝で劇場版「ルパン三世」
 (通称:ルパン対複製人間)
 12月16日公開。
 
 (3月18日には一足先にテレビシリーズで
 放映された「ベネチア超特急」が
 「東宝チャンピオンまつり」で劇場公開
 されている)
 
 
 
 
「ルパン対複製人間」EDに流れた三波春夫の歌う「ルパン音頭」はMPの作詞。
 
併映は「ナイル殺人事件」。
 
 
1979年
昭和55年
43歳
 
 
 TVアニメセカンド・シリーズ
 10月6日放映終了。全155話。
 
 
 
 
このアニメ新作は対象年齢層を下げ、ファミリー路線を狙ったパラレル要素の強いシリーズだった。
 
声優・山田康雄や大野雄二の楽曲の人気もあって安定したファン層を掴み、支持年齢層も大幅に拡大させた。
 
しかしMPはこのシリーズから銭形警部を狂言回しのギャグメーカーにされたことに、後に不満の意を示している。
 
 
1981年
昭和56年
44歳
 
 
「週刊漫画アクション」の
 「新ルパン三世」連載終了。
 
MPがサンディエゴコミックコンベンション
 INKPOT賞を受賞。
 
6月21日「ルパン8世」の企画制作のため、
 東京ムービー藤岡社長、飯岡順一と共に
 フランス側のスタッフに会いに行く
 
 (その後企画は流れる)
 
 
 
1984年
昭和59年
47歳
 
 
「週刊漫画アクション」で
 「SEXYルパン・3」シリーズ掲載。
 
TVアニメシリーズ「ルパン三世PARTV」
 読売テレビ系列で3月3日放映スタート。
 
 
 
 
「SEXYルパン・3」シリーズは、MPと脚本・平野靖士とのコラボで短期単発掲載。
 
 
1985年
昭和60年
48歳
 
 
シネセゾン「星くず兄弟の伝説」 に
 俳優(ゲイバーの客役)として出演
 
 (監督:手塚眞 6月15日公開)
 
東宝で劇場版
 「ルパン三世バビロンの黄金伝説」
 7月13日公開。
 
TVアニメシリーズ
 「ルパン三世PARTV」放映終了。
 
 
 
 
この頃、自分で絵を描く為のPCプログラムをつくり、プリントアウトしたルパンに色を塗って「アクション」編集部にまで持って行くが
 
「こんなギザギザの汚い絵は載せられない」
 
といわれ、その絵を捨てる。実質的にはこれが雑誌に載っていたら、世界で初のCG原稿となるはずだった。MPによると、MPがCGでルパンの原稿を出版社に持ち込んだ半年後にアメリカで「シャッター」という漫画を描いている人物が
 
「世界で初めてコンピューターで漫画を描いた」
 
と新聞のニュースになったそうである。どうしても観たくてアメリカの友達に頼んで送ってもらったところ、こちらも絵はギザギザで手法も全く同じ方法だったという。
 
 
1987年
昭和62年
50歳
 
 
 OVA「ルパン三世風魔一族の陰謀」制作。
 12月18日東宝で劇場公開。
 
 
 
 
この作品で山田康雄はじめとする5人のレギュラー声優が全て交代となる。MPの元へは
 
「ギャラの問題で制作会社が危ないから」
 
という説明が入り、考えた末
 
「事前に、声優陣に話をすること」
 
を条件として今までお世話になった制作会社の義理を立てる事にする。
 
だがこの一件は声優陣には知らされていなかった。作品完成後にそれを知ったルパン役の山田康雄はMPに猛抗議。
 
驚いたMPは当時のスタッフ陣と連絡を取ろうとするが既に全員現場を離れており、これを機に二人の仲に溝が出来てしまった。
 
 
1989年
平成1年
52歳
 
 
4月1日、日本テレビ
 「金曜特別ロードショー」で2時間TVSP
 「ルパン三世 
 バイバイ・リバティー危機一発!」
 放映。
 
 (この時点で51歳)
 
 (以後、現在まで同枠内で、ほぼ毎年
 1年に一度、新作
 「ルパン三世テレビスペシャル」
 の放映が繰り返されている)
 
 
 
 
この作品から声優が元に戻される。テレビ局にゲストとして呼ばれたMPは山田康雄もゲストに呼ばれていた事を知る。改めて謝罪するが、山田はまだわだかまりを抱えた感じだった。
 
 
1995年
平成8年
59歳
 
 4月20日、東宝で劇場版
 「ルパン三世 DEAD OR ALIVE」公開。
 
 (この時点で58歳)
 
 
 
MP自身に「ルパン三世」の劇場版アニメ監督の話が来る。それまでアニメでは一切口出しをしなかったMPだが、これまでのアニメ演出に対する不満があった為
 
「ルパンたちをオリジナルの姿で作る」
 
ことをテーマに引き受ける。ところが現場では今までのアニメルパンのイメージでやろうとするスタッフと対立。喧嘩状態での製作となった。後にMPは
 
「大勢のスタッフを一度に見ることはとても自分には出来ない。宮崎さんはやはり凄い。アニメ監督はもう二度とやりたくない」
 
と語っている。MPは自分が一番アニメルパンで好きな作品旧シリーズ第2話を担当した故・大和屋竺に、本当はこの映画をやってもらいたかったという。
 
 
その後には
 
「実は、機会があれば、今度は完璧な僕の作品でやってみたいです」
 
とアニメ製作にも前向きな発言をしている。
 
 
 
講師・講演
活動時代
 
     
1997年
平成9年
60歳
 
 
 「文化庁メディア芸術祭
 マンガ・アニメーション部門審査委員」
 
 を務める
 
 
 
1998年
平成10年
61歳
 
 
 「ルパン三世」に
 ハリウッド映画化の話がくる。
 
 
 
 
アメリカの著名なプロデューサー「ホー・キットマン」
 
(『JFK』などをプロデュースしている)
 
から
 
「ルパンを実写映画化したい」
 
と打診が来る。主演はジム・キャリーを予定。ホー氏は成田からいきなりモンキー・パンチの家に来て、そのまま夕方には帰ったという。
 
 
2002年
平成14年
65歳
 
 
2月からアメリカ
 「カーツ―ン・ネットワーク」局
 (Cartoon Network)で
 「ルパン三世」TVシリーズの放映が開始。
 
「ルパン三世」がハリウッドで
 実写映画化権取得
 
 (3月27日 ロサンゼルス特電)
 
 
 
 
実写映画化権を取得したのは、
 
「シンドラーのリスト」「レインマン」
「ジュラシク・パーク」「ロスト・ワールド」
 
等のプロデューサー、ジェラルド・R・モレン。
 
 
2003年
平成15年
66歳
 
 
「東京工科大学大学院 
 メディア学研究科メディア学専攻大学院」
 へ通い始める。
 
デジタルマンガ協会会長を務める
 
 
 
 
片道3時間かけ東京・八王子の研究室へ通い始める。パソコンでは10年以上前から漫画を描いてきたが、
 
「きちんとした勉強をしないと、これ以上先に進めない」
 
と考え、大学院受験を決めた。通学は週2回。仕事が忙しい時は仕事場のパソコンで大学のウェブサイトを見て、講義ノートを参照しながらリポートを書いた。
 
 
2004年
平成16年
67歳
 
 
 「東京工科大学大学院
 メディア学研究科」卒業。
 
 
 
2005年
平成17年
68歳
 
 
4月「大手前大学人文科学部
 メディア・芸術学科
 マンガ・アニメーションコース」
 専任教授に就任。
 
12月14日〜2006年1月29日
 「モンキー・パンチ原画展」開催。
 12月18日「モンキー・パンチ来館イベント」
 
 
 
 
「モンキー・パンチ来館イベント」で
 
「『DEAD OR ALIVE』は失敗作」
 
「モンキー・パンチ原画展」で
 
『カリオストロ』も『DEAD OR ALIVE』も、ぼくのルパンではない」
 
と発言。
 
 
2007年
平成19年
70歳
 
 
9/8(土)〜11/25(日)
 さいたま市立漫画会館
 
 「モンキー・パンチ原画展
 ―ペンとデジタル―」
 
 開催。
 
モンキー・パンチ氏講演会 同所
 10月27日(土) 14:00〜15:30
 
 
 
2009年
平成21年
平成21年
 
 
9/12〜11/25(日)
 さくら夙川の大手前アートセンターにて
 「大手町大学 モンキー・パンチ展」
 を開催。
 
 
 
 
現在
 
   
 
 
千葉県佐倉市在住。佐倉市広報カレンダーの作画も担当する。
 
 
写真資料はネットで検索。アシスタントもアトリエではなくネットを経由して自宅でやってもらっている。
 
 

 
情報協力御礼:yさん 熊子さん
 
出典先
 
モンキー・パンチ原画展―ペンとデジタル―〔2007年インタビュー〕/TAC・Ti・・・s〔講談社〕/コミック入門〔双葉社〕/25〔メディア・シェイカーズ〕/ルパンも知らなかった!峰不二子の謎〔祥伝社〕/LUPINTHE3RD DEAD OR ALIVE〔映画パンフレット/東宝 日本テレビ〕/100てんランドアニメコレクション6ルパン三世PART-2〔双葉社〕/SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI/ルパン三世公式OFFICIALmagazineWEEKLY漫画アクション平成15年1月20日増刊号〔双葉社〕/ルパン三世公式 /「COMIC GON! Vol.4 恐怖という名のトラウマ」〔平成11年3月1日号/ミリオン出版/(株)OFFICIALmagazineWEEKLY漫画アクション2006年11月27日増刊号〔双葉社〕/WEEKLY漫画アクション5月25日増刊号「モンキー・パンチ責任編集ルパン三世」〔双葉社〕
 
大手町大学シンポジウム記録〔http://www.otemae.ac.jp/kyoiku/symp/040611.html〕/文化庁メディア芸術プラザ〔http://plaza.bunka.go.jp/information/event/fukui_repo.html〕/シマネスク・島根〔http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/28/menu05a.html〕〔http://www.zakzak.co.jp/midnight/hollywood/backnumber/L/030228-L.html〕〔http://www.avanti-web.com/〕

inserted by FC2 system